広告写真のモダニズム【松實輝彦】

広告写真のモダニズム


書籍名 広告写真のモダニズム
著者名 松實輝彦
出版社 青弓社(404p)
発刊日 2015.02.20
希望小売価格 3,240円
書評日 2015.06.16
広告写真のモダニズム

写真史、あるいは広告の歴史に興味がある人なら、中山岩太という名前を聞いたことがあるにちがいない。聞いたことがなくても、中山岩太が撮った「福助足袋」の広告写真を見たことがあるかもしれない。「写真家・中山岩太と1930年代」とサブタイトルを打たれたこの本は、昭和前期に活躍した写真家・中山岩太を有名にした「福助足袋」をめぐって、日本の広告写真の歴史と中山岩太の足跡を交差させながらその意味を探っている。

W_2             (「福助足袋」本書より)

「福助足袋」は、中山岩太の展覧会が開かれれば必ず出品されるし写真集が出版されれば必ず掲載される、中山岩太の代表作のひとつとされる。それだけでなく、デザイン史でも画期的なものとされるし、写真表現としても従来の絵画的な「芸術写真」に代わってモダニズムの台頭を告げる作品として歴史的評価が高い。

僕もそんな写真史の常識程度の知識しかなかったけれど、この本ではじめて知ったのは、福助足袋の社史には中山の有名な広告写真についてまったく記述がないという事実だった。中山の「福助足袋」は企業シンボルとして繰り返し使われたと思いこんでいたのだが、どうもそうではないらしい。「福助足袋」は作品としては輝いているけれど、現実の広告としては必ずしも評価されず、幸福ではなかったようだ。そのあたりが面白かった。

もともと「福助足袋」は、1930年に東京朝日新聞社が主催した国際広告写真展の公募に中山が参加し、一等に選ばれた写真だった。このとき審査員の評価は文句なしで、第六回まで開かれた同展のなかでもこれを超える作品は現れず、「あれが一番良かった」「あれが一つの型になった」と言われている。

この「福助足袋」が実際に新聞広告に使われたのは1930年5月の東京朝日新聞。全面広告に一等の写真とトロフィーを配し、福助足袋が「光栄なこと」と謝辞を表するものになっている。だから中山の写真そのものを広告として使ったというより、賞を得たことを報告する広告のなかに、これが受賞作ですよと提示されているかたちになる。

著者の調査によると、それ以外に「福助足袋」が広告として使われたのは二度。同年5月の大阪朝日新聞と、31年1月の東京朝日新聞。いずれも単独の広告ではなく、「第2回国際広告写真展作品募集」などの告知の下に各企業の広告が並ぶなかのひとつとして使われている。新聞広告のありようからすれば、こういう「企画広告」は企業が積極的に広告を出したというより新聞社が各企業に出稿を呼びかけ、企業がそれに応ずる場合が多い。とすれば、福助足袋はこの広告について必ずしも主体的に出稿したのではなく、第1回で受賞したことからの「お付き合い」だったのではないかとも推測できる。

もっとも、福助足袋が企業として広告宣伝に熱心でなかったのかといえば、そうではない。むしろ企業広告を積極的に推し進め、時の流行にきわめて敏感だった。1882年に大阪・堺で創業された福助足袋は、1912年に当時の足袋業界を驚かせた豪華ポスターをつくっている。当時の人気画家・北野恒富を起用し着物美人が足袋を手にした図柄で、「菊版半截、石版十三度刷り、六千枚」という美術印刷並みの凝りようだ。ポスターだけでなく、当時流行したアドバルーンや広告塔も使っている。

印刷技術が進歩し広告媒体としての新聞の価値が高まった昭和になると、新聞広告にも積極的になった。中山の「福助足袋」が一等を取った30年には、鳥瞰図画家として寵児だった吉田初三郎を起用し、堺の工場風景を中心に「日本一福助足袋鳥瞰図」を一面広告として出している。

注目すべきなのは、中山の受賞作が新聞広告として使われるのと同時並行で、30年12月の大阪朝日新聞にリアルな写真を使った福助足袋の広告が現れていることだろう。福助足袋の幟や工場風景、店頭風景のスナップをコラージュしたもので、中山の優雅でデザイン的な「福助足袋」とは対照的にリアルで力強い広告になっている。福助足袋はこの後も、工場や出荷風景のスナップショットを構成したリアリズムの写真広告という路線をつづけている。

写真史に興味がある人なら、ははんと思うかもしれない。ちょうど同じころ、先駆的なアート・ディレクターだった太田英茂が花王石鹸の社運を賭けた一大キャンペーンに写真家・木村伊兵衛を起用して一連のリアルな写真広告を展開していた。福助足袋の写真広告は、この花王石鹸の広告写真の雰囲気にとてもよく似ている(著者は写真家・金丸重嶺の手になるのではと推測している)。

スナップショットという新しい技法を使ったリアリズムの写真広告は、当時の広告表現の最先端だった。企業広告に熱心だった福助足袋は、戦略としてこのリアリズム広告の路線を採用していたのではなかろうか。ところがそこに中山岩太の「福助足袋」が賞を取って話題になった。会社としてリアリズムの路線を変えるつもりはないけれど、賞におつきあいした。著者が調べたこの間の経緯からは、そんなふうにも想像できる。

こんな「福助足袋」の現実社会での流通の仕方に、中山岩太という写真家の孤立と栄光が凝縮されているのかもしれない。中山は若いころ東京美術学校写真科の第一期生として優秀な成績を収め、ニューヨークに渡って写真スタジオを開設し、さらにパリに移って藤田嗣治やマン・レイらと交流して舞台写真やファッション写真を雑誌に発表し、1927年に日本に帰ってきた。欧米の新しい美術や写真の動向を現場で体験した、当時この国では数少ない人物だった。

中山の写真はポートレート、スナップショット、パイプやグラスなどのオブジェ、ヌード、タツノオトシゴや貝を配したシュールなフォト・モンタージュと多彩だけれど、どの作品も独特の造形感覚に貫かれ、繊細で幻想的な美を感じさせる。そしてどの作品からも伝わってくるのは作者のどこか陰鬱な気配だ。

日本に帰った中山は兵庫県芦屋に居を定め、神戸大丸の写真室で営業写真家として生計を立てつつ、地元の写真家と芦屋カメラクラブをつくって展覧会に出品する作品の制作に没頭した。「福助足袋」は、そうした作品制作のなかから生まれた。「であるから…私もアマチュアと云へる訳である。然し私は自分はアマチュアではないと思ってゐる」というねじれた物言いには、そんな中山の自負と屈託がうかがわれよう。また、「広告写真の最も優秀なものは前衛的の仕事をしてゐる作家の仕事を巧みに商品化して行くところにあると思ひます」という文章に、中山の広告写真への考えが見てとれる。この時代に、そうした考えが現場で広告をつくる企業人と一瞬交わったにしても、それが持続することはなかった。

この時代、経済の重心は大阪から東京へと移りつつあり、写真の世界でもアマチュアが純粋な作品活動をするなかから、プロフェッショナルな写真家が生まれつつあった。東京では金丸重嶺や太田英茂が制作会社をつくって企業広告を請け負っていたし、やがて名取洋之助や木村伊兵衛はデザイナー原弘と組んでプロフェッショナルな写真家集団・日本工房を結成する。中山も神戸大丸などで商業美術を手掛けているけれど、残された資料を見る限り、中山個人の「前衛的の仕事」を商業美術の枠に流しこんだ次元にとどまっている。

でもプロフェッショナルな写真家として立った名取や木村はやがて否応なく戦争に巻き込まれ、プロパガンダに従事せざるをえなくなってゆく。彼らの戦争期の仕事を他方の端において中山岩太の作品を見ると、その美と孤立が一層際立ってくる。(山崎幸雄)

プライバシー ポリシー

四柱推命など占術師団体の聖至会

Google
Web ブック・ナビ内 を検索